マキタスポーツ他『東京ポッド許可局』(新書館、2010年)

某方からお借りして読了。その後、現在聴けるポッドキャストもいくつか聴いてみました。以下、まとまらない中の雑感。

感想としては、本の方が読みやすい。というか、彼らのポッドキャストは僕はどうも好きになれない、というのが本当のところ。本として面白いところだけ抽出されて、余計な部分が削ぎ落とされた方が、いいものになるのは当然かもしれないが。

まあいろいろ書いているわけだけれども、やはり「手数論」は定量的な手法が珍しく、面白い。M-1の分析に関しては、この筋でおそらく間違ってないのではないかと思う。それだけ、M-1というものがある種の形式に則って行われてきたものであるということもわかる。

ただ、M-1は多くの若手芸人に影響力があるとはいえ、まだM-1優勝者から持続的に冠番組を維持できるようなコンビは出てきていない。まあ今のところ依然としてボキャブラ世代の時代で、これからM-1世代が冠を張っていくようになるのかもしれないけど、この本ではそのあたりへの言及が薄いのは残念。

また、正直今更たけしやプロレスを語られても、という気はする。そういう意味ではM-1とR-1について語った二章分が、僕にとっては現代的な意味をもつ部分だった。テレビ・バラエティでは、M-1優勝者初期世代(中川家ますだおかだアンタッチャブル)と同じ世代のバナナマンが「次」を担いそうな昨今の情勢(個人的な観測によるので異論はあるでしょうけれど)なので、基本的にテレビでしかお笑いを見ない僕にとっては、M-1(というか「ネタ」を披露すること)を軸にお笑いを語られるのも、やや不満が残る。

あとやはりR-1のところで少しだけ触れていた鳥居みゆき。やっぱり鳥居みゆきの凄さについては、テレビ・バラエティ愛好者としては、分析できるなら深く分析してほしかった。R-1が違うジャンルの人同士の戦いであるという点には頷かされたが、素数に例えるのはあんまりうまくないと思った。「評論」っていうのは、ある意味では上手いこと言い合い合戦だから、質実な「研究」とは若干ベクトルが異なる。サンキュー氏がなんどか研究ということを強調して話している部分があるけれど、そこにどうも違和感がある。

僕は「書評」という作業にはあまり価値を見出すことができず、「評論」自体に懐疑的な部分があるので、これはただの雑感だけど、僕が自分の中で力をこめたものとしてなにかを書くとしたら、やっぱり「オチ」をつけることできれいに締めたいと思う。彼らはそういう「オチ」に対して懐疑的だけれど、物語にはやっぱりそれが必要なんじゃないかと思う次第。

追記:

読み返してみるとなんか批判ばかりになってますが、面白いところはあることは確かです。片岡鶴太郎長渕剛の話とか。でもやっぱりどうもこの人たちと僕の見ている視点というか、見方が違っていて、読みたいようなテーマが選ばれていない、というのが根本なんでしょう。2008年のM-1感想のところでも少し書いたことですが、やっぱりお笑いには「いい感じに狂ってる」ということを求めてしまうのが僕の立場なので。それを成立させるためには技巧も必要なんでしょうけど、しかしやはりそれは本質ではないと考えてしまいます。

全然関係ないけど、僕はどうもオフィス北野の芸人に好感を持てていない現状があります。実は水道橋博士とかもあまり好きじゃない。移籍したけど東京ダイナマイトとかも。三又も。たけし本人は好きじゃなくはないんだけど。これが的確かどうかわからないけどオフィス北野所属という中にたけしのフォオワーであるということを見てしまっているのかもしれません。