夏目漱石『現代日本の開化』

一方、『行人』の解説で言及されていたものを、勢いあまって青空文庫からダウンロードして読んでしまいました。これは『行人』を書く前に関西に行った時に、和歌山で公演したものを文字にしたものです(明治44年8月)。これまで読んだ小説の登場人物のイメージからいうと、夏目漱石はあまりしゃべりが上手そうではないと思うのですが、実際のところはどうだったんでしょう。

前置きが非常に長くて好感が持てます(笑)が、それはともかく、「開化」一般について論じた後、日本の維新後の「開化」についてかなり無理矢理だということを言っておりまして、最終的には「大変だよなあ」みたいな感じのおさまりきらない終わり方になっているんですが、最後のところで、こんな例を引いて、日本について話しています。

真と云うものは、知らないうちは知りたいけれども、知ってからはかえってアア知らない方がよかったと思う事が時々あります。モーパサンの小説に、或男が内縁の妻に厭気がさしたところから、置手紙か何かして、妻を置き去りにしたまま友人の家へ行って隠れていたという話があります。すると女の方では大変怒ってとうとう男の所在を捜し当てて怒鳴り込みましたので男は手切金を出して手を切る談判を始めると、女はその金を床の上に叩きつけて、こんなものが欲しいので来たのではない、もし本当にあなたが私を捨てる気ならば私は死んでしまう、そこにある(三階か四階の)窓から飛下りて死んでしまうと言った。男は平気な顔を装ってどうぞと云わぬばかりに女を窓の方へ誘う所作をした。すると女はいきなり馳けて行って窓から飛下りた。死にはしなかったが生れもつかぬ不具になってしまいました。男もこれほど女の赤心が眼の前へ証拠立てられる以上、普通の軽薄な売女同様の観をなして、女の貞節を今まで疑っていたのを後悔したものと見えて、再びもとの夫婦に立ち帰って、病妻の看護に身を委ねたというのがモーパサンの小説の筋ですが、男の疑も好い加減な程度で留めておけばこれほどの大事には至らなかったかも知れないが、そうすれば彼の懐疑は一生徹底的に解ける日は来なかったでしょう。またここまで押してみれば女の真心が明かになるにはなるが、取返しのつかない残酷な結果に陥った後から回顧して見れば、やはり真実懸価のない実相は分らなくても好いから、女を片輪にさせずにおきたかったでありましょう。日本の現代開化の真相もこの話と同様で、分らないうちこそ研究もして見たいが、こう露骨にその性質が分って見るとかえって分らない昔の方が幸福であるという気にもなります。とにかく私の解剖した事が本当のところだとすれば我々は日本の将来というものについてどうしても悲観したくなるのであります。外国人に対して乃公の国には富士山があるというような馬鹿は今日はあまり云わないようだが、戦争以後一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである。なかなか気楽な見方をすればできるものだと思います。ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前申した通り私には名案も何もない。ただできるだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うよりほかに仕方がない。

なんとなく「取返しのつかない残酷な結果に陥った」のあたりが、近代化を押し進めた結果多方面の戦争へと向かう日本が暗示されているようにも思えて、夏目漱石の慧眼におののくばかりです。そしてその後完全に破たんするのではなくてポジティブな方向に向かうところまで。まあこれは強引な解釈なのかもしれませんが、やっぱり夏目漱石は見えてる人だったんだなあ、と改めて感じました。

やることなくなったら漱石研究でもしようかなあ。